
浄法寺から戻ってきた私は昼過ぎの空に、そこには雲が全くなかったのだが、突出する奇岩を見た。希望の橋から馬淵川下流側を眺めるとそこには断崖が立ちはだかり河流を堰いている。眼下の澎湃眩しい瀞は碧く滔々と流れゆく川に斑模様を付けている。

国道四号線を少しだけ南下するとこのような大鳥居が現れる。これが観音堂への入口だ。

鳥居のある場所は新奥の細道、末の松山のみちの起点ともなっている。奥州街道として栄え、江戸には菅江真澄も訪れたというこの一帯。この道を辿ることにしよう。

観音堂へ続く道には頻りに道標が置かれている。三叉路を左に進む。

暫くして振り返ってみればあまり珍しいとも思われない農村。低山に遮られた地平を見ることは叶わず、世界の拡がりをおよそ碧空によってしか知ることができない。

遂に観音堂へ到着した。

このような看板が目印である。これまで盛んに観音堂を宣伝してきたが、ここには目立つ目印が比較的少なく、世俗を眩まそうとする意識が働いているのだろうか。

参道入口には木漏れ日が注ぐ。歪んだ石段を上がる。

参道の奥の方まで眺めると道は僅かに、しかし確実にカーブをしていて、既に葉桜となった桜もそのうねりに従って成長する位置を定めている。狛犬は頭部が欠落しており悲惨な情景が脳裏に映る。 はじめこれが本当の入口なのかと訝しがったが鳥越山と書いているところを見るとどうやら間違いではないらしい。

上から眺めると午後の光に影を濃くし、黄昏の色を微かに感じる。脇には鳥居があり、それに続いて幼稚園がある。


看板から数メートル離れたところに立つこの記だと思われるが周囲の木が桜を覆ってしまいその可憐な花や枝振りを鮮明に見ることはできない。


いよいよ山道を登って観音堂へとゆく。

参道入口の鳥居のそばまで畑が広がる。春は盛りで生命の律動が惜しみなく大気に充ちている。もう葉桜であったが鶯色の芽が萌え始める態も決して悪いものではない。

途中にこのような祠もある。

道は上のような深い濠となっている。湿った道には蚊が湧き、夥しい蚊が身辺へ纏わり付いてくる。

ほぼ中間地点にあるのが弁慶岩。

なるほど弁慶でなければ持てないような岩で弁慶以前から崇拝の対象となっていたのかも知れない。(上から落ちてきた岩であるようにも思えるが)

中途にある石碑には何合目とある。登りはきつかったがさほどの距離でないため楽に登れる。

五合目辺りで群集するお地蔵様と対面する。風車が供えられていたが風はなく誰も回すものがいない。

山門に到着したがそこには湧き水がある。

先程天台寺で目にした桂清水にはその神秘性、水量において及ばないが木の根元からは水が湧き出ている。

これが山門。大きいものではなく家へ入ってゆくような感じすらする。

こちらは吽形像。優しい顔立ちである。

傍らには梵鐘がある。

もう一方には阿形像。こちらも恐怖よりは慈愛を感じ、肉体は逞しい。赤く彩色されていて冬などよく目立ちそうだ。

入口には鐘があり山門は鐘楼の役割も果たしているのだろうか。白い装束を纏った数人の女性の団体がこれを鳴らしていた。

通路にある扁額には由緒が書いてあったがこの先に読みやすいものがある。

福寿海無量

遂に観音堂の直下まで到達した。岸壁はそり立つようで私に覆い被さってくる。今にも崩れそうな迫力がある。

先程の扁額とおおよそ同じことが書いてある。創建はかなり古いようだが(平安初期)現在の形となったのは江戸の初期らしい。

この階段を上って観音堂へと向かう。

観音堂の直下では階段の上にまで建物が迫り出してきている。人為的に崖をくりぬいたようにも見える。

お堂の床は1本の丸太があるほかは垂直方向に伸びる柱はなく、岩窟にその建築様式の通り懸かっているのだ。

お堂ははじめ閉まっていたが木のつっかえ棒を外すとゆっくりと開いた。可愛らしい観音扉の内側からは冷気がしみ出してきた。

内側は多少埃っぽかったがかび臭くはなく、また湿り気もないので想像以上に過ごしやすい。このようなスリッパも置いてある。

入口から見て正面には神棚がある。

手前のテーブルの上には記帳があり、私も訪問の標を付けてきた。

テーブルの奧には観音様がいらっしゃる。黒光りする金属で古さは感じさせない。メッキが剥がれて黒い肌が見えるほかは、それほどの劣化も見当たらない。

このように石油ストーブもあって暫く籠もることもできそうだ。 私はここに1時間ほど滞在してその涼しさに身を浸した。もう午後であるので山の東斜面に位置する観音堂に日は当たらない。時折侵入してきて唸る蠅は、ふと止まっているかのように思われる時間の私に対するささやかな抵抗のようである。昨日の哀しみも時間の流れのない中ではもはや意味をなさない。山を下るごとに深まる想念をここでは消し去ることができるのだ。寒さに身を震わせることもあったがその寒さは快いもので、あえて逃げる気も起きなかった。欲望の消化ほど快いものはなかったのである。

いよいよ山の下の方で人の声が聞こえたので下山することにした。観音堂の少し下にはこのような祠がある。

岩窟それぞれに安置された祠に接近することもできる。

帰りにも再びお地蔵さんを見た。木漏れ日の斑模様はいよいよセピアの深まりを見せ、法師の背中に哀愁を感じる。

下山して道を北上するとこのような鳥越山の石碑がある。

さらに上へ登ると馬仙峡。二戸の市街は馬淵川の狭窄部を抜けた先にあるのだ。

二戸は大きい町ではないがそれは盆地の規模によるのだろう。南北に長い町である。

さらに行くと末の松原へと到達する。自転車で行くにはかなりの重労働であったが二戸や軽米周辺の稜々とした山々を見られた。この辺りは高山はなく同じような高さの山が見渡す限り続くのだ。

松原から下ってゆくと浪打峠の交叉層。これはクロスラミナと呼ばれるもので実物は初めて目にした。

切れ込みはさほど深くないがこの堀割の斜面は造形が複雑で見ていて飽きない。木々の萌芽はあと数日で一斉に弾けそうだ。少し雲が出てきた皐月の午後に憩う。