年の末、今から一月ほど前のこと、盛岡→二戸→久慈→宮古→盛岡と一周する計画を立て実際にその通りに移動してみた。朝の電車は早く朝食の雑炊を胃に詰め込みIGRいわて銀河鉄道へと乗り込む。盛岡から二戸までの道のりは遠く、途中馬淵川の絶景が目に入る。今年は雪が少なく、その日は冷え込みがひどかったものの奥中山高原の辺りも枯草が広がっていた。二戸で下車し目的地である九戸城へ。徒歩20分くらいだっただろうか、馬仙峡の断崖など見つつ進むと埋蔵物文化センターなどの看板が見えてきて九戸城もあと少し。はじめに九戸城の側を流れる白鳥川の断崖にくり抜かれた岩谷観音堂へ行った。

工事中で近付くこともままならなかったが遙拝を済ませていざ九戸城へ。この辺りの地形は全体的に切り立っており正に天然の要害と言ったところ。さすが秀吉軍に2カ月耐えただけのことはある。

足跡は私と弟がつけたものなので悪しからず。向こうに見える橋を越えて向かってゆく。

ところどころに案内板があって非常にわかりやすい。上の写真の現在地から北へ進んで回り込むルートを持って場内へと侵入した。

城内にはこうした空堀が巡らされている。これ程の規模のものとは思っていなかった。ありがちな戦国の小名の小城とは異なり三戸城などにも匹敵するのではないか。など思っていたがそれもそのはずで三戸城を持つ南部信直が九戸政実に対して劣勢だったらしい。それにしても朝の九時過ぎの城は気持ちの良いものだ。小動物の足跡が随所に見られ、雪も今朝降ったようなものではないらしい。夏には発掘作業など盛況を見せているらしいが冬は閑古鳥が鳴いている。しかし今日の太陽は薄らとした銀世界にちょうど良い。照りつけも柔和で白砂糖が辺りに煌めくようだ。

この石垣、地元の方は九戸政実のころ建築されたと信じていたらしいが昨今の調査によって浅野長政、蒲生氏郷が普請したものと分かったらしい。発掘は一方でロマンを壊すものである。

このように他の郭も一部残っている。寺領や神領となったようで当時の姿をよくとどめている。



このように簡素な堀も残っている。橋が渡されていて秋には風光明媚な姿を見せてくれそうだが冬には凍結してしまっていてその実像は朧気になっている。

バス停の近くの交差点にはこのようなものがあった。読めなかったがこうした石碑をおいてくれるのは文化財の振興に非常に役立つこと。奮ってやっていただきたい。 これから久慈行きのバス、スワロー号に乗る。