焼尻島訪問編の続き。

焼尻について初めて立ち寄ったのはこちらの寺坂商店。なんでも昨日の昼から飲まず食わずだった私の喉の渇きはもう限界だったのだ。船酔いもあって全く食欲がなかったがそろそろ何か口にしておかないと倒れてしまいそう。
薄暗い店内にははじめ人影がなかったが会計の時に呼び出すと老婆が重い足取りで出てくる。愛想などは期待してはいけない。生鮮食品はあまりなく、お菓子や加工品、飲み物が陳列されている。私は緑茶とカニカマを買って外へ出た。
お茶の味は内地と変わらず安心した。カニカマを二本ほど食べるとどこか元気が湧いてきた。ペダルを踏む足は次第に元気を取り戻し、長方形のような形をした島の南端である太郎兵衛崎への坂道はまだ見ぬ景色への期待に、ほとんど視覚上のものだけとなっていた。




島の突端までは僅かであった。商店の前にいたころは目の前の県道がどこまでも南下していくかに思われたが呆気なく突き当りがやってきた。

かつては6000人を数えたという人口も今や200人ほどであるが、道に沿ってかつての家のあとと思われる敷地が随所に広がっている。そこには紫陽花や菊がもうそこにはない家庭をの残滓となり、潮風に洗われながら咲いていた。

今や藪となっているがこのあたりにも人家が見られたのだろうか。今や灯台へ向かう道もおぼろげである。


綿羊の厩舎が見えると県道はいよいよ一車線化される。この時間帯、羊は厩舎の中にいるようであった。

厩舎を過ぎると眼前には水平線までくっきり見渡せる日本海と悠然とした天売の島影が見えた。

この小さな島に来て雄大な北海道の自然の神髄たるものを見つけようとは思いもよらなかった。わずか周囲10キロメートルほどの島は大地が計り知れない力によって析出されたものであるかのように感じられたのだ。踏みつける大地がこれ程偉大に感じられたことはなかった。



日本ではじめての英語教師となった米人、ラナルド・マクドナルドは幕末に日本潜入を試みて焼尻島へ上陸した。彼は白浜に上陸したわけではないらしいが、彼はなぜこの波濤が砕け散るこの島を選んで上陸したのだろうか。ここ白浜も海水浴場とは名ばかりで大きな岩がいくつも転がっている磯である。



白浜野営場はキャンパーのメッカになっているようでこの日も多くの人が泊まっていたらしい。この日は風こそ強かったが、天気によく恵まれ、海も綺麗に見渡せている。そして何よりも回りを取り囲む青々とした牧草。きっと夜には羊の鳴き声と潮騒を遠くに聴きながら、昨日の私のように満天の星空の下、寝られるはずである。


白浜から先は登りに転じるが、私の足はもはや疲れを忘れていた。吹き付ける風もこの劇的な景色を突き進む私を鼓舞するものとしかならなかった。島の西端である鷹の巣園地はもう少しである。


坂を上りきると間もなく崖に突き当たる。天売はいよいよ大きく見えたが武蔵水道は人の往来を許さないほどに深い紺碧の色をしている。しかし天売と焼尻は圧倒的な海の支配に歯向かうように屹立している。

島は東側に一方的に盛り上がった形をしているので展望台に立つと島の全体がよく見える。島の多くは牧草地となってしまったようだが島に元々生えていたイチイは鬱蒼とした森林を形成している。道を歩いている限りはその殆んどに人のてが入ってしまったかのように思われたのだが、全体を見渡してみると人のてが及んでいるのは一部だけである。


鷹の巣園地にはもう一人自転車で島内を廻っている人がいた。旅人特有の親近感に誘われたが、それと同時に日常の羞恥が私を襲った。風が俄に強くなったので少しのお茶を飲んだ後、足早に西浦集落へと下る道を降りた。




曲がり角のところからは島の西端にほど近いところにある簡易的な灯台へと通じる細い踏みあとが電線にしたがって続いていたが、余りにも藪が深く行くことが出来なかった。荒野にはすすきばかりであったが、所々黄色い花も咲いている。


坂を下りきると県道は二車線となり人家も散見されるようになる。東浜の集落を抜けてからわずかな時間しか経っていなかったが、遥かなる冒険をしてきたかのような錯覚に襲われる。どこか心に余裕が生まれてきたので海を間近で見たくなった。南岸とは異なって波も幾分穏やかである。海岸へ続く思わしげな踏みあとを見つけたので行ってみることにした。


さすがに北岸といえども打ち付ける波は激しく、さながら東宝映画のオープニングのようである。






西浦のメインストリートには人の姿はなかった。家々は押し並べて煤けた薄い木の板に囲まれていて、来るべき冬の嵐に備えているようだ。ここにも元は家が立っていたであろう空き地がそこかしこにあって、朽ちた家の残骸が藪に呑み込まれている。そんな一角には紫の菊が咲いているのだ。







西浦漁港は人の姿がなく寂しい。テトラポットに打ち寄せる波の音が平衡感覚を失わせる。今の季節はどのような魚が揚がるのだろうか。



焼尻に二つある寺のうちの一つだが入植の歴史が浅いこともあってかそれほどの歴史は感じられない。参道は短いものであったが徐々に広がる海原をしばしば振り返らずにはいられなかった。


飯澤定吉がどのような人物であったのかはよく分からなかった。要再調査である。


寺の周囲は密林に囲まれていて人を寄せ付けない。溺死者供養の党も周りには茨が生えていて、久しく手入れされていなかったようである。これらの石碑についての話を伺おうと母屋の戸を叩いたのだが全く人の気配はなかった。フェリーには和尚が乗っていたのだがここの寺の住職ではなかったのだろうか。



寺の後ろ側には墓地が広がっている。恐らく島民は押しなべてここに眠るのだろう。また、墓地の傍には火葬場もある。島に生きた先人たちの人生が詰まっていると思うと畏敬の念が湧いてくる。

蜷川実花氏の造花の写真に触発されて撮ってみたものだが、北国の造花は心なしか色あせたものとなっている。墓にいつまでも咲き続けるかに思われた花も吹き付けるシベリアの大気の前には無力であるのだ。(私の写真の技術が低いのは言うまでもない)



墓地の周りは少し刈り払われているので夏の残り香漂う初秋の花々がここぞとばかりに咲いている。少し茶色くなっているところに季節の移り変わりや潮風の厳しさを感じる。花の写真を撮っていると正午のサイレンが鳴った。島の時間にかまけて携帯も碌に見なくなっていたが久しぶりに時間の感覚を取り戻した。



願海寺を過ぎると小高い丘があって、それを越えると豊崎集落に入る。豊崎には島で唯一の小中学校、発電所、信号機がある。また、上記の寺もこの集落にある。





本日は土曜日だったが3名ほどの子供が先生らしき人と一緒に歩いてきた。焼尻の地は新たな命を育まないでいるには美しすぎる。初めて島内の子供を見つけたがそれがあたかも必然であるかのように思える。



この焼尻は書家として著名な中野北溟生誕の地である。御年97歳、大正12年の生まれである。現在札幌在住らしいので一度往年の焼尻島の様子を伺ってみたいものだ。



一周約二時間半、長旅ではなかったが感動の多い焼尻一周の旅路であった。昼下がりの焼尻港には旅人の姿はなく、船が数隻沖の方で漁をしている。対岸には天塩山地が暖かく横たわっている。私の心は急にそちらへ吸い寄せられた。焼尻に来てなぜか故郷の空気が恋しくなった。

郷土資料館はかつて焼尻の豪商として栄えた小納家の旧宅を改装して利用している。内部は写真撮影禁止だったのでお見せすることはできないが、漆塗りの調度品や襖絵、屏風、生活用品、九谷焼の便所、中野北溟の書、レコード(アッテルベリの交響曲なんて言うものもあった)、焼尻に関する史料が展示されていた。また、かつて郵便局として使われていたのでその関係品も置かれていた。観光客は必ずここへ立ち寄るようで、混雑しないまでも人が絶えることはなかった。
島内探索編へと続く。
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